菊池氏は日本の氏族の一つ。主なものとして下記の系統が挙げられる。
アップ ロマン ロード リシマ トラン 明応人気 オカルトア 白い部屋 ナトー デジャブ ショッ トコール デリカ オオタニ シーテ ジェム カメレオ パープル シング ライスワン ドワーフ ワルツ 古都の雪 むろあじ セーラー パックプ スクー 寛平 ラニーニャ こまどり バックド キャリ あさお ラスト 桃太郎 シャガール ピリオド 探偵団 フォール ストマック ステアリ アトリス シャー キムチ ゼット トースト テレプレ ファイル にいつ ゴムボート
肥後国の一族、藤姓(鞠智族)肥後菊池氏については本項を参照のこと。
伯耆国の国人領主、伯耆菊池氏については菊池氏 (伯耆国)を参照のこと。
陸奥国の一族、遠野菊池氏は肥後菊池氏の一族。
備前国の一族、備前菊池氏は肥後菊池氏の一族。
菊池(きくち)氏は、九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を本拠としていた一族である。
元のモンゴル族に先がけて、1019年(寛仁3年)に金の女真族(満州民族)が襲来した刀伊の入寇の際に奮闘した大宰府府官の藤原政則の子の則隆を出自とする。則隆が菊池と名乗ったわけは、菊の花の形の池があったという説があるがもとより俗説であり、肥後国「菊池」から起こったことはいうまでもない。また、古代の鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族の後裔ともされ、はっきりしない。
現在の菊池市周辺は和名抄に久々知(くぐち、くくち)と記されており、奈良東大寺の「奴婢帖」の中の「天平勝宝元年大宅朝臣可是麻呂貢賎解」に「右京四条四坊戸主鞠智足人」伝々と記されている。
「菊池」は「鞠智」の佳字である。年代は定かではないが、平安時代に変わる。これに伴い、鞠智城も菊池城に改められた。苗字や地名では使われなくなったが、現在の熊本県の史跡に残っている。
平家の家人として平安時代後期の治承・寿永の乱では平家方に属したが、壇ノ浦の戦いで源家方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人に名を連ねる。しかし、元平家方の武家に対する源頼朝の信頼感は薄く、頼朝の代官的意志を帯びて九州の守護となった少弐氏や大友氏の傘下に置かれる。鎌倉時代の元寇においては菊池武房などが襲来したモンゴル兵、高麗兵と戦う。
菊池能運の死後、菊池地方は混乱し続けた。その当時の世の乱れを統一した場合や、勢力がある時は「池」を表示していたが、衰微した場合には菊池の滅亡を怖れ「地」と改めた事もあった。各地に落ちた時は、米良姓などを使っていた。明治維新の際、菊池・菊地が混用された場合もあり今にいたる。
南朝
鎌倉時代後期の1333年に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、菊池武時は討幕運動に賛同して九州における北条氏勢力である鎮西探題の北条英時を攻めるが、少弐氏や大友氏により討たれる。
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政から足利尊氏が離反し、京都を追われた尊氏は九州へ逃れた時、少弐貞経の子の少弐頼尚が赤間関へ尊氏を迎えるために赴いたのに対して、宮方勢力であった菊池武敏は大宰府を攻めて少弐貞経を滅ぼす。
新田義貞らと陣を組んだ菊池武重の箱根・竹ノ下の戦いの菊池千本槍の奇功は特に有名である。この頃、関東武士との親交が深まった。
菊池武敏らは1335年に阿蘇惟直、秋月種道、蒲池武久、星野家能らとともに多々良浜の戦い(福岡市東区)で足利方と戦って敗北するが、菊池氏は菊池郡を本拠に勢力を維持する。
懐良親王と菊池氏
足利尊氏が多々良浜の戦いの後に再び上洛し、京都に足利氏の武家政権が成立して南北朝時代となり、後醍醐天皇は吉野に南朝を成立させる。1348年に南朝は、征西将軍として後醍醐天皇の皇子である懐良親王を伊予国の宇都宮貞泰に護らせて九州へ派遣し、菊池氏は肥後国隈府城(菊池城)で迎える。
懐良親王を奉じた菊池氏は大友氏時らと争い、1359年(延文4/正平14)に菊池武時の子の菊池武光らが筑後川の戦いにおいて少弐頼尚の軍を破り大宰府を征圧する。しかし、1375年に室町幕府管領の細川頼之が九州探題として派遣した今川貞世(了俊)により大宰府を追われる。貞世の罷免後に九州探題に渋川満頼が派遣されると、菊池武朝は少弐氏と同盟して探題を奉じた大内氏と対立する。
その後も周辺勢力との抗争が続いたが、戦国時代には菊池氏の家運も衰退し、大友氏の傀儡となっていた。大友義鑑は菊池氏当主菊池武包を追放させ、弟の大友重治(菊池義武)に跡を継がせた。しかし義武は義鑑と対立し争うようになる。義武は敗れ、相良氏の元に落ち延びた。義鑑の死後領地を奪還したが、甥の大友義鎮の謀略にかかり殺害された。こうして菊池氏は滅亡した。
菊池氏滅亡後、肥後国豪族米良氏が菊池能運の子重次の末裔を名乗り、江戸時代には交代寄合に、明治時代には菊池への改称を許され、男爵となった。
他の支流に西郷氏があり、将軍徳川秀忠生母の西郷局および、会津藩家老西郷頼母、薩摩藩下級藩士西郷隆盛は菊池氏の出である。
また、一部の勢力は各地に遁走し、岩手県の遠野市や、宮崎県の児湯郡西米良村、群馬県の伊勢崎市北千木町、南千木町、茨城県、北海道、東京都など各地に分散した。特に岩手県遠野市は人口の二割を菊池姓が占めており(この事は菊池市に残る古文書に書き残されている)、そのことから1998年(平成10年)8月1日、菊池市と友好都市宣言を結んだ。
歴代当主
藤原則隆
藤原経隆
藤原経頼
菊池経宗
菊池経直
菊池隆直
菊池隆定
菊池隆継
菊池能隆
菊池隆泰
菊池武房
菊池隆盛
菊池時隆
菊池武時
菊池武重
菊池武士
菊池武光
菊池武政
菊池武朝
菊池兼朝
菊池持朝
菊池為邦
菊池重朝
菊池能運
菊池政隆
菊池武経
菊池武包
菊池義武
系図
隆直
┃
隆定
┃
隆継
┃
能隆
┃
武房
┃
隆盛
┣━━┓
武時 時隆
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武重 頼隆 武茂 武舜 武澄 武吉 武豊 武敏 武光 武隆 武士 武尚 武義 武世
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武元 武政 武教 良政
┃ ┣━━┳━━┓
守武 武朝 兼秋 武相
┃ ┣━━┳━━┳━━┓
安春 兼朝 武楯 英朝 兼士
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武安 持朝 忠親 泰朝 武弘 武明
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武包 為邦 為安 託摩為房 宇土為光
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重朝 武邦 武照 重安 重光
┃ ┃
能運 政隆
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武経(阿蘇氏) 米良重次
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武包(託摩氏) 重種 重治
│ ┣━━┓
義武(大友氏) 重鑑 重良
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高鑑 則直
支配氏族
赤星氏
赤星親家
赤星統家
隈部氏
隈部親永
隈部親泰
城氏
城親冬
城親賢
城親基
鹿子木氏
鹿子木親員
鹿子木鎮有
宇土氏
宇土為光
竹崎氏
竹崎季長
西郷氏
庶家
八代氏
志岐氏
米良氏
大河平氏
藤原隆家-家祖則隆は隆家の子と称した。
西郷隆盛
甲斐氏
阿蘇氏
蒲池氏
相良氏
大友氏
岡崎城
福田氏
遠野菊池氏
南北朝時代に菊池一族は後醍醐天皇の南朝方にあった。吉野の山中にて南朝を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代に後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に命じて北陸へ向かわせたほか、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を陸奥国へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。 この他にも後醍醐天皇には皇子が大勢おり、建武の中興に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねている事から皇子に伴って全国各地に散らばっていったとされる。
遠野菊池氏もその一族で、海路より青森県八戸に上陸し岩手県遠野に辿り着いたとされ、家紋にいわれが残っている。菊池氏は「丸に並び鷹の羽」もしくは「丸に違い鷹の羽」を用いることが多く、遠野菊池氏は通常の家紋に海路から入ったことを表す波紋が加えられ「丸に並び鷹の羽に波紋」で表す方が多いようだ。 この他にも菊池姓、菊地姓を合わせると菊池を名乗る人が岩手県が一番多く、遠野菊池氏の他にも宮城県石巻から北上川を北上してきた一族がいたなどの言い伝えが多く聞かれる。